もしも逢えた時は誇れる様に

前回の記事は11月、去年。

たまたま2014年の漢字を清水寺で見る機会があって、自分自身の漢字はなんだろうかと考えてみたら、割とすぐに浮かんだ漢字はネガティブな意味で、実にわたしの2014年を表していると思った。それもあって2015年は良い意味を持つ年にしたいなぁと前向きなことを思ってスタートした。良いことだ。

今更振り返っても間抜けだから、ほんの少し。終わりのほうはとにかく靄がかかっている正体不明なものに焦って悩んでた。今はそこまで思い詰めてはいなくて、いろんな事柄が少しずつ混ざり合って何かしら影響を与えるんだろう。3月になってみないとわからないけれど、このままの状態をキープできればどうにか乗り越えることができる気はする。

 

わたしが今の仕事をしているきっかけを造った人、わたしにとって「雲の上の存在」の人に会った。会ったというか仕事をした。大きな括りで捉えれば同じ業界で仕事をしているけれど、立場で言えば「王貞治」と「地方草野球チームの新人」くらい縁遠い人。だからか正直実感が湧いていなくて、実際打ち合わせもしたのにも関わらず、薄ぼんやりと「会ったんだよな?」と半信半疑のままだ。舞い上がっているわけでもない。どうしてこんなぼやぼやした状態でいられるのか。

わたしが大切だと思っているように、同じようにそれ以上に大切に思っている人がたくさんいることを最近ようやく気が付いた。それは責任とか重圧とかプレッシャーとかそんな言葉に表されるやつで、それをもっときちんと受け止めないといけない。受け止めていないからぼやぼやしてるんだと。

偶然と運とほんのちょこっとのやる気で得たこのポジションは、すごく恵まれていて羨む人がいることは知っている。きちんと自分の立ち位置で背筋を伸ばして立たないと、きっと簡単に吹き飛ばされてしまうよ。